神霊による人生相談

ょっ言。

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2026年5月の投稿一覧

-2026年 5月31日-

今月も仕事以外での祓いが多くありましたが、昨日の30日は少し楽な感じだったので、家族皆でお参りに行こうという事になり、久しぶりに鞍馬寺へ参拝してきました。

鞍馬寺へ行く前には、鞍馬寺の本尊である「尊天」様に参拝させていただく旨を前もってお伝えしてから出掛けました。

先に書いた「尊天」というのは、人間を初め、この世に存在する全てを生み出している宇宙生命・宇宙エネルギーです。

それは、真理そのものとして神仏の区別を超えて、一つの形式に固定されず、本質を保ったままで、森羅万象・日月星辰(日(太陽)、月、星、星座という天の上の全て)あらゆる神仏の外見の姿となって現れ、その働きは愛と光と力となって現れるとされています。

愛(慈愛・慈悲)の働きとしては、月輪の精霊として千手観世音菩薩

光の働きとしては、太陽の精霊として毘沙門天王

力(生命力)の働きとしては、大地の霊王として護法魔王尊

この三体のお姿として現され、この三身を一体として「尊天」と称されています。

鞍馬寺では、それ故に「月のように美しく、太陽のように暖かく、大地のように力強く」と祈り、

「すべては尊天にまします」とお唱えされています。

また、非生命から生命まで、森羅万象の全てが宇宙生命エネルギーであり、神仏や大いなる意思など、見えない働きが具体的な姿としての現れが「尊天」という事です。

本殿金堂内でお祈りをしながら、それぞれを浄化してもらいました。

本殿を出てすぐ隣にある、光明心殿のお堂に入って、目の前に祀られている「護法魔王尊」を拝見し、光る眼を見ながらお祈りしていると、隣に座っている家族が、魔王尊の目が私の方にだけ向いていると言ってました。

それで、家族の事もお願いすると、私の方に向いていた目が、家族(自分達)の方へ動くように感じられ、家族も「今こっち見たー!」と言っていたので、私の話に注目して聴かれていたところから、次に家族の方へと気を向けられたので、家族の方の視線と合わさって見えたんだと思いました。

護法魔王尊様は、見た目は怖い感じですが気さくで優しい魔王尊です。 たまに冗談も言われます。

そうして光明心殿のお堂を出て、宇宙のエネルギーを浴びに本殿金堂の前にある金剛床に向かいました。

鞍馬寺の本殿金堂前の「金剛床」には、六芒星と三角形の図形が刻まれていて、宇宙と大地が交錯する場所とされています。

そこの中心に立つ事で宇宙エネルギーを受け取る体感が強まると信じられているので、心身の浄化などに訪れる人達のパワースポットになってますね。

六芒星は、六つの頂点を持つ星形で、古来より宇宙の秩序、陰陽の調和、神聖な宇宙構造を象徴されてきました。

鞍馬寺の本殿前の金剛床には、この六芒星に、尊天の構成要素である愛(月)・光(太陽)・力(大地)の三要素である三尊が六芒星の中で融合する事で、エネルギーを引き上げる場所となっています。

それから、六芒星の中心にある三角形の石は、宇宙エネルギーの焦点の場所であります。

そこに立って尊天の宇宙エネルギーを受ける事により、自分の意識と尊天のエネルギーとの一体感を得ると言われているので、参拝者さん達が順番を待つ行列が出来てる事も多いです。

私達も、それぞれに金剛床の六芒星の中に立って、降りてくる宇宙のエネルギーと尊天のエネルギーを取り交ぜて、心身の浄化をしてきました。

私的なイメージ映像では、六芒星の中で宇宙エネルギーを想う時、既に宇宙の光を受けているのか、まず最初は宇宙に浮かぶ地球、その地球を見下ろしている意識(宇宙意識、空間意識)のようなイメージが入り、その中に明るく光る日本、そして京都の鞍馬寺の六芒星に大きな透明の光が真っ直ぐに降りているイメージがあり、その光の中に立つ私が見えました。

次に、尊天さまから来る温かな光(癒しの光)がきて、次に熱い光へと変化しながら、大きな安心感の光に変化していくのを感じ取りながら立っていました。

次に、エネルギーを全身(自分の霊体)に受けて、自分の霊体を構成している霊細胞の隅々にまで光を流して浄化していくと、心も体もスッキリしました。

あっ、「霊細胞」の浄化をこの世的に例えると、入浴時に綺麗な純粋な水が出るシャワーを浴びながら、その水を体の中にも流し込んで、内臓などに溜まった不純物を綺麗な水の水流で洗い流す感覚をイメージしてもらえばと思います。 

六芒星での浄化の後は、本殿の中に祀られている尊天(毘沙門天様・観世音菩薩様・護法魔王尊様)にイメージを合わせて少しの間、お話してから再度エネルギーを受けると、後ろへ押し出される感じになって後ずさりしながら六芒星から出てしまいました。

尊天様は、「その位で、もう良いやろ~」って言いながら少し笑ってました。

まあ、後に控えてる人も居られましたので、尊天様に上手く切り上げて貰えて良かったです。

家族それぞれがエネルギーを受けて、それぞれの感想を言い合って、尊天様に感謝しながら本殿を後にしました。

鞍馬寺に着いた時間が何時もより遅かったので、帰りのケーブルカーの最終時間に間に合わず、歩いて下山しました。

山を下りる道沿いにある弁財天様や不動明王様などの祠に頭を下げながら降りて行って、麓の近くにある由岐神社に参拝してから、奥の三宝荒神様で手を合わせていると、祠の裏側でガサゴソという音がしていたので、霊的な音か、それとも何かいるのかな?と思って、祠の裏側を覗いてみたら、野生のシカが木の根っこ辺りの草か何か食べていました。

鞍馬山で野生のシカを見たのは初めてだったので、思わず家族に向かって「鹿が居るよー! こっち来てみー!」って小声で叫んでも、鹿は、こちの事も気にせずに草や葉っぱを食べてました。

皆それぞれ夢中で写真を撮ってました。 もう普通に声出して鹿の事を言ってましたが、鹿はこちらを見ても、「あっ、そこに居るのね」みたいな感じで、祠の後ろをウロウロと歩きながら草を食べてました。

久しぶりに鞍馬寺へ来たので、御神体でもある「鞍馬の山の神様が鹿を見せてくれたんかも~」って、テンション上がったまま山を下りました。

鞍馬寺の山門近くにある駐車場に止めた車に乗って、もう少し奥に進んだ所にある「くらま温泉」で夕食を食べて、内湯のお風呂に入ってから帰宅しました。

今回、露天風呂へは入りませんでしたが、外国の旅行者さんたちが沢山来られていて、それぞれにお風呂を楽しまれたり、浴衣姿で楽しく会話しながら寛がれていました。

くらま温泉では、料理も美味しかったですし、お風呂にも入ってゆっくり出来たので、気分良くリフレッシュ出来ました。

こういう事を経験すると、また行きたくなるんですよね(*^-^*)

今回は、鞍馬寺へ参拝した時のお話でした。

-2026年5月14日-

今日は、お釈迦様が亡くなられる前に説かれたという「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」についてお話します。

「自灯明・法灯明」の教えというのは、

自分自身を灯明とし、自分自身を拠りどころとし、

他人を拠りどころとせず、法(仏法真理)を灯明とし、法を拠りどころとし、

他のものを拠りどころとしないように

お釈迦様は亡くなられる前、お弟子に向かって、こういった言葉を残されました。

この心構えがあれば、色んな惑わしや、教えの意味も学ばずに仏像だけを拝むようなものであったり、意味も分からない経典を有難がったり、偏った教えの指導者を崇拝したり、自分の判断でない世間の判断に流されて正しい方向が見れない生き方、依存傾向への戒めになると思います。

そして誰かに頼るのではなく、教えそのものを学び、自らの判断で行動していくという事が、一番大事な心構えであるという事を説かれたと思います。

こういう事から、お釈迦様は「法灯明」より、先ずは自分自身を深く信じることの大切さを考えて「自灯明」を先に掲げられたんだと思います。

では、「自灯明・法灯明」というのを簡単に解説していきますね。

この「自灯明」というのは、自分自身を灯明(灯火の光)として生きるという意味です。

これは、自分自身を拠りどころとして、他人を拠りどころとしない生き方としていきなさいという事でもあります。 それは、その時々に変化する他者の評価や期待などに振り回されるのではなく、本当の自分(心の声)を信じ、それを指針として生きていく事が大切だと説かれています。

それには、自分が何を感じ、どういった気持ちでいるのかを意識してみると良いです。

今自分は、嬉しいのか、気分が良いのか、または嫌だと感じているのか、しんどい気持ちなのか、疲れているのか等、そういった自分の中の感情に向き合い、素直な思いに気付けるようにしていきます。

そういう意識が定着してくると、自分が本当に望んでいる事なのか? 自分はどうしたいのか?という考えが湧くようになります。 その時に、自分の心を守るために、勇気をもって意見するという事が出来るようになります。 そうなれば、他人の意見や周囲の雰囲気に流されてしまって、本心ではない結論になって自分を苦しめるという事も防げます。

これは、他人の意見や価値観に惑わされず、今の自分を受け入れた中で、どうしていくかを広く柔軟に考える事が出来るという、自己肯定感を養い保つ事にも繋がります。

あとは、疲れた自分を癒す事も大切です。 自分の好きな事をしたり、自分の時間を作る事で、心が落ち着いて、少し弱くなっていた自灯明という自分の内なる灯明(灯火)の明るさが復活してきますよ。

次に、「法灯明」とは、仏法真理の教え(法)を、灯明(自分の拠りどころ、暗闇を照らす灯り=灯火)としなさいという教えです。

自灯明では、自分自身を灯火として自分の人生を生きるという事でした。

法灯明では、自分を灯火としていくことへの気付きや、自分自身を導く判断基準として、仏法真理という法の教えを学び、その教えを灯りとする事です。

これにより、自分の心と法の教えに沿って判断しながら生きていくという事を、心の中に定着させることで精神的にも安定して過ごす事が出来るようになって行きます。

それから、自分の灯りや法の灯り以外のものを、深く考えもせず、その時の社会の風潮などで誤って拠りどころとしてしまわない様にという戒めの意味もあります。

この「自灯明・法灯明」という二つを心に持って生きる事により、自分自身で歩みながらも、仏法真理の教えに照らし合わせて、生きていきなさいという意味が込められていると思います。

そうして自分を信じ、最後は自分の判断で法(教え)を心の中に活かして生きていくという事だと思います。

生きていくが難しいと感じる時ほど、自分の心に無理をさせていたり、感情を押し込めていたりします。

自分の心を楽にさせる事は、自分の本心に目を向けて、どう思っているのか感じ取ってあげること、そこから今出来る事を一つ考えて、次はどう実行するかを考えてるだけで心に灯り(希望の灯り)は点りだします。

それが実行できれば、目の前の世界は明るく感じられ、自信が湧いてきて、勇気や希望の光で心が満たされてくる感じを受けます。

この数行の記事を読まれて、少しでもそうしてみようと感じられたら、法灯明の灯りが心に点いたかもしれませんよ。

そして、内なる自分を信じて歩んでみようと思ったなら、自灯明の灯りが心に灯ったと思います。

お釈迦様は、自灯明・法灯明という順番で教えを伝えられましたが、これは本質的な順番なんです。

悩み苦しまれて、心が疲れ切っている人にとっては、法灯明があって自灯明という順番の方が受け入れやすいです。

最初はそれで良かったとしても、そこに頼り過ぎる事で、自分の判断が出来なくなると「依存」という楽さの罠が潜んでいるという事を気付く必要があります。

自分の灯明が灯せなくなって、他人の灯りや、自分の灯りが無いので誤った教えを灯りとして信じ込み、そういったものだけを追っていく人生になる可能性があります。

お釈迦様は、そこを心配されていたんだと思います。

最後は自灯明を灯して生きていくという事が一番大事なことは、こういった自分の無い人生を送ってしまう可能性がある事から理解して貰えるかなと思います。

自灯明を照らし、法灯明の導きを得ながら、人生を明るく変えつつ歩んで行きたいですね。